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ふしぎ@102


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  • 画像タイトル:1281685876211.jpg-(7227 B)
    7227 B無題 Name 名前無し 10/08/13(金)16:51 No.2782  
    新撰組にあって『一に永倉、二に沖田、三に斎藤一の順』と評された永倉新八。
    1894年(明治27年)の日清戦争開戦時、55歳の永倉は抜刀隊に志願するも
    「お気持ちだけ……」
    と断られるた。
    「元新撰組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい。」
    と笑ったという。
    晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通う。
    「近藤、土方は若くして死んでしまったが、
     自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」
    と。ある時、映画館の出口で地元のヤクザにからまれ、鋭い眼力と一喝で退散させた。
    *手拭で戦ったとか、杖を持っていたという説もある。
    複数の暴漢を睨んだだけで追い払ったことは事実のようで、
    後に孫である杉村道男氏が語っています。
    無茶苦茶に強かったというのは確かです。
    無題 Name 名前無し 10/08/13(金)17:03 No.2783  
    慶応3年12月、新選組が京都から引き上げるという間際の日、
    永倉は妻・小常の死亡を翌日に聞かされた。
    永倉の娘・磯の出産後、肥立ちが悪く、病没した。
    小常の姉は磯を抱いて永倉に会いに来ます。
    屯所の前の八百屋の座敷を借り、我が娘との対面を果した。
    磯はその後、叔母夫妻に磯子として育てられ、尾上小亀という女役者になる。
    明治24年、その人気ぶりは東京にいる永倉にまで聞こえ、
    永倉は京都に出向き、生き別れとなっていた実娘との再会を果した。
    無題 Name 名前無し 10/08/16(月)20:18 No.2789  
    永倉新八は、チャップリンのキーストン、グリフィスの映画や『ジゴマ』など、小樽へ来る外国映画は同じものでも二度、三度と観ていたという。
    孫である杉村道男氏によれば……
    映画がハネ、下足番に人々が先を争うように集まる。
    もう八十に近い永倉新八も、よたよたと人の波にもまれていた。
    土地の若いやくざ者が、7〜8人で永倉新八を小突きまわす。
    "じじい、早くしろ"とか"ぐずぐずするな"と言われるも長倉はこらえてた。
    「私も、十年以上も、祖父が剣を持つ姿を見ていませんし、
     はらはらしながら、祖父の手にすがっておったんです。」
    そんな杉村少年を察したのか、よろよろしていた長倉の背筋がぴいんと張ったかと思ったっら……
    長倉の肚の底から、ほとばしり出るような凄まじい気合声が起こり、やくざ者を睨みつけた。
    やくざどもは、たちまちに蒼くなって、ぱっと祖父から離れ、逃げてしまった。
    「おじいちゃん、強いね?」
    と、嬉しそうな杉村少年に、永倉は鼻の先で笑って
    「あんなのは、屁みたいなものだよ」
    無題 Name 名前無し 10/08/30(月)16:58 No.2818  
    池波正太郎の本でこのお話読んで、
    永倉新八好きになった。


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