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ふしぎ@102
新撰組にあって『一に永倉、二に沖田、三に斎藤一の順』と評された永倉新八。1894年(明治27年)の日清戦争開戦時、55歳の永倉は抜刀隊に志願するも「お気持ちだけ……」と断られるた。「元新撰組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい。」と笑ったという。晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通う。「近藤、土方は若くして死んでしまったが、 自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と。ある時、映画館の出口で地元のヤクザにからまれ、鋭い眼力と一喝で退散させた。*手拭で戦ったとか、杖を持っていたという説もある。複数の暴漢を睨んだだけで追い払ったことは事実のようで、後に孫である杉村道男氏が語っています。無茶苦茶に強かったというのは確かです。
慶応3年12月、新選組が京都から引き上げるという間際の日、永倉は妻・小常の死亡を翌日に聞かされた。永倉の娘・磯の出産後、肥立ちが悪く、病没した。小常の姉は磯を抱いて永倉に会いに来ます。屯所の前の八百屋の座敷を借り、我が娘との対面を果した。磯はその後、叔母夫妻に磯子として育てられ、尾上小亀という女役者になる。明治24年、その人気ぶりは東京にいる永倉にまで聞こえ、永倉は京都に出向き、生き別れとなっていた実娘との再会を果した。
永倉新八は、チャップリンのキーストン、グリフィスの映画や『ジゴマ』など、小樽へ来る外国映画は同じものでも二度、三度と観ていたという。孫である杉村道男氏によれば……映画がハネ、下足番に人々が先を争うように集まる。もう八十に近い永倉新八も、よたよたと人の波にもまれていた。土地の若いやくざ者が、7〜8人で永倉新八を小突きまわす。"じじい、早くしろ"とか"ぐずぐずするな"と言われるも長倉はこらえてた。「私も、十年以上も、祖父が剣を持つ姿を見ていませんし、 はらはらしながら、祖父の手にすがっておったんです。」そんな杉村少年を察したのか、よろよろしていた長倉の背筋がぴいんと張ったかと思ったっら……長倉の肚の底から、ほとばしり出るような凄まじい気合声が起こり、やくざ者を睨みつけた。やくざどもは、たちまちに蒼くなって、ぱっと祖父から離れ、逃げてしまった。「おじいちゃん、強いね?」と、嬉しそうな杉村少年に、永倉は鼻の先で笑って「あんなのは、屁みたいなものだよ」
池波正太郎の本でこのお話読んで、永倉新八好きになった。